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新レコード演奏家論

菅野沖彦先生の著作「新レコード演奏家論」について感想を述べよ、という指令を受けました。

 

とは言え、この本はレコード音楽に関する菅野先生の長年の、たぐいまれな経験を元に書かれているものですから、私なんかが軽々に感想を申しあげられるようなことではありません。

 

なので、「レコード演奏家」という考え方について、論議の構造を私なりに分かりやすく整理してみることにしました。

 

ただし、私の理解不足や表現力不足などによって、かえって分かりにくくなる場合があります。

どうかお許しを。(笑)

 

また、菅野先生が書かれていることを私が全く誤解していることもあるかも知れません。

というかきっとあるでしょう。お許しください。文責は全て私にあります。

 

 

********************************

「新レコード演奏家論」の「第12章 受け手と表現手の各ステージ」での分類に沿って、写真や絵画と対比しつつ、論点を整理してみます。(表1)

 

表1 【レコード音楽の各ステージ】

 

音楽、レコード音楽

写真

絵画

 

芸術性

芸術性

芸術性

第1ステージ

作曲

撮影

描く

第2ステージ

演奏

第3ステージ

録音

元の演奏の芸術性

(撮影)

(○)

(描く)

(○)

論点1

録音固有の芸術性

第4ステージ

再生

元の演奏の芸術性

論点2

録音固有の芸術性

論点3

再生固有の芸術性

第5ステージ

鑑賞

鑑賞

鑑賞

*芸術性:○は「一般に認知されている」の意。

 

第1ステージは自然現象を対象にして人間が表現行為を行うもので、「音楽(作曲)」「写真」「絵画」いずれも芸術性が一般に認められています。

 

写真の場合には「カメラ」という人工物が介在することもあり、初期には「単なる複製ではないか」という意見もありましたが、オリジナルとは別の固有の特質・独自性を持つことが認められ、芸術として認知されるようになっています。

 

 

第2ステージは「音楽」に固有のステージで、演奏がここに位置します。これも現在ではその芸術性が認められています。

しかし、最初からそうであった訳ではなく、表現手の自覚と行動によってその芸術性が認知されるようになったものです。

 

例えば、オーケストラの指揮について、野村あらえびす先生が著書「名曲決定盤」に次のように書いています。(以下カッコ内引用)

 

「オーケストラの指揮というものは、かなり古くから開拓されたものだが、しかし昔の指揮者は原作者の意図を生かすことを以て最上とし、従って楽譜通りに演奏すれば以て足れりとしたのであるけれども、時代と共に指揮法も次第に変化し、指揮者の意志が次第に多く加わって、指揮もまた創作的な意図を必須条件とする独立せる芸術になったのである。

………(略)

わけてもニキシュは、指揮は即ち一つの芸術であるという立派な建前で、しかもそれを実際に証拠立てたのであった。」

 

アルトゥール・ニキシュは1855年の生まれで、指揮者としての活動は1878年頃から1922年に没するまでですから、指揮というものの歴史からすれば、これはそれほど昔のことではないわけです。

 

 

第3ステージは、写真や絵画においては、人工物を対象にした場合があたると言えるかも知れません。

 

写真の場合には、第1ステージをクリアした段階で既にここでも芸術性を獲得していると言えるでしょう。

絵画の場合はもっと自然に理解されている反面、ポップアートの領域では論議を巻き起こしているのが面白いところです。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶などが有名ですが、現在ではこれも芸術として認められています。

 

「音楽、レコード音楽」における第3ステージは、録音という行為になります。

 

ここでひとつめの論点「録音制作に固有の芸術性は認められるか」が発生します。

「新レコード演奏家論」では「第14章 レコード制作家とは」でその仕事の内容が詳述されているとおり、その芸術性は写真と同様に認められるものと思います。

また、ここにスポットを当てて論議した場合、その芸術性の有無にあまり異論は出ないとも思えます。

 

むしろこの論点については、この仕事の実態について世間であまり知られていないということが課題なのかも知れません。曲、演奏を含め、できあがったレコード(CD)に芸術性が認められなければ、録音の芸術性は成立しません。世間にはたくさんのCDが出回っていますが、多くはまだ芸術と認知されない音楽であるため、それらについて録音制作の芸術性にまで認識がおよぶ余地がないということです。

 

 

第5ステージの単なる「鑑賞」が芸術ではないということは、全てに共通です。

 

 

戻って第4ステージは、再び「音楽、レコード音楽」に固有のステージです。ここが論議の中心です。

 

再生された音楽には、それがうまく再生されていれば、元の演奏の芸術性を認めることができます。

また、音の悪いラジオからきこえてきた音楽にとても感動した、というようなことを多くの人が体験していると思います。私もそうです。

これは再生環境がよくなくても、聴く側の心の状態によっては、元の演奏の芸術性は十分伝わる場合があるということだと思います。

 

自分の部屋に居ながらにして、元の演奏の芸術に触れることができるのは素晴らしいことです。

これだけでも十二分にありがたいことで、こんな凄いことが可能な時代に生まれたことに私は感謝しており、もうここで話を終わりたいくらいです。(笑)

 

現在では一般的にも、レコード音楽に元の演奏の芸術性は認められていると言ってよいかと思いますが、これも最初からそうだったわけではありません。レコード音楽を生演奏の代用品と捉える時代は、比較的長く続きました。

 

この原因の一つに、菅野先生は生の音もレコードの再生も、同じ本物の空気を媒介とするものであることを挙げられています。これが認識の混乱を招いたと。

 

そのとおりだと思います。混乱するのです。

私は高校のときにクラシック・ギターを演奏するクラブに入っていましたが、ある時クラブのメンバーが、会議録音用の小さなカセットデッキでナルシソ・イエペスの演奏を皆の参考に聴かせ、こう言ったのを覚えています。

 

「演奏はいいけど、イエペスってひどい音だよね。○○くん(私)の方が全然いい音だ」

 

冗談だと思って、言った本人の顔を見ましたが、彼は真顔でした。

イエペスに、申し訳がない。

 

高校生の言うことですからまあ仕方ないと言えば仕方ないのですが、これでは演奏家が録音再生を毛嫌いするようなことがあってもやむを得ないと思われます。

 

さて、しかしながらこの、生の音もレコードの再生も同じ本物の空気を媒介とすることが、この後の論議に重要な役割を果たします。

 

再生された音楽に、元の演奏の芸術性を認めることができても、それだけであれば、その芸術性は元の演奏のものであって、コピーである再生音楽のものではありません。

 

そこで論点2が出てきます。

録音固有の芸術性があり、それが再生によって表現されるのであれば、レコード音楽は生演奏から独立した価値を持った芸術であることになります。

 

そして論点3。録音固有の芸術性にとどまらず、再生に固有の芸術性があることをもって、「レコード演奏家」が成立します。

 

 

********************************

レコード演奏家に関する論議の構造、論点の位置は、だいたい以上のようなものと思います。

「新レコード演奏家論」では様々な形で論拠が提出され、証拠が積み上げられていきます。

またこの著作は、レコード音楽全般を扱ったものであり、上記以外にも様々な見識が述べられています。ぜひ読んでみてください。

(書いているうちに「お勧め本の紹介」のような気分になってきました)

 

 

さて、音楽というものは、人類の誕生以来継続的に、直線的に成長を続けてきたのでしょうか。

そんなことはありません。

 

あるジャンルが永遠に進化し続けるということは、ないと思います。成長が止まったジャンルが元通りもてはやされることもありません。全盛期の作品が後世に残ることはあっても。

 

音楽も未来永劫成長し続けるというわけにはいきません。

例えば「詩」がそうであったように、成長がスローダウンしたり、成長が無くなることは十分にあり得る話です。

 

かつては「作曲」が音楽の「芸術」と言える分野でした。しかし「作曲」が成長し続けるにも限界があり、それと入れ替わるように「演奏」が芸術として認められ、主役になった。

 

やがて「演奏」の成長が限界を迎え、その「再生」が主役になることがあるかも知れません。

 

逆に、演奏が限界を迎え、再生がそこを埋めることができなければ、音楽自体が衰退することになるかも知れません。

 

もちろん、音楽の成長を止めないことがベストです。そうあって欲しい。

しかし現代の作曲が後世に残る芸術だろうか、少なくとも演奏込みでの話ではないかと考えると、再生の責任もまた重いと思うのです。

 

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コメント

こちらへは初めて書き込ませていただきます。小生はオーディオ好きですが、まだまだ初心者で「レコード演奏家論」もよんだことのない人間です。

おっしゃりたいことはわかるのですが、それでもレコード演奏家の演奏と家電製品を購入してスイッチを入れることの間に、芸術性の有無があるとは理解できませんでした。

ひとつには芸術と一般に認められるような努力がオーディオ側でなされていないと思います。家の中に閉じこもっていては、認められることはないと思います。

また、仮にレコード演奏コンクールなるものが実現したとしても、聴衆が芸術性を感じるのは音楽の演奏家に対してであって、レコード演奏家に対しては高度な技術者あるいは職人といった認知ではないかと思います。

世の中には自己満足の「芸術」は掃いて捨てるほどあります。レコード演奏がそれから一歩抜け出すためには、公共性を獲得することが必要です。そのためには、例えば、公共の空間ですばらしいレコード演奏を行い、製品を買ってきてつないだだけとは違うことを示すことがあると思います。

工業製品たるレコードを、工業製品たるオーディオ装置で鳴らすだけで芸術を標榜するには、相当革新的な運動が必要と思います。個人宅で少数の人に聴かせるだけでは、社会的地位としての芸術とは認められないと思います。

そこまでやったとしても「音の職人」どまりかもしれませんが。車のチューニングを芸術的な領域まで高める人がいますが、だれも芸術家とは呼びませんからね。

誤解なきように付け足しますが、ステレオサウンドの愛読者である小生は菅野さんのご自宅の音は芸術の域にまで達していることを疑うものではありません。ただ、「レコード演奏家論」がご紹介にあったような内容なら、まだ道半ばではないかと感じた次第です。長文失礼しました。

投稿: NEXTNEXT | 2005年9月12日 (月) 01時35分

NEXTNEXTさん、コメントありがとうございます。

そうなんですよね。「公共性の獲得が必要」、その通りだと思います。

私の文章がつたなくて、うまくお伝えできていないところも多いと思います。申し訳ないです。「新レコード演奏家論」ぜひ読んでみてください。

投稿: 任三郎 | 2005年9月12日 (月) 07時17分

NEXTNEXTさん、家電製品を購入してスイッチを入れることと、オーディオ再生は全然違いますよ。「レコード演奏家」という言い方は僕自身、やや引いてしまう部分があるという前提で・・・機械を通して音楽を再現することは長い道のりが必要です。箱から出して線つないで、とりあえず音は出ますけれど、これはスタートに過ぎません。しいて言えば、楽器の演奏に近いものがあります。機械の挙動をマスターし掌中のものにしないと、定常的にうまく鳴ってくれないのがオーディオです。これらをナンセンスと思われるとしたら、失礼ながら本当のオーディオの凄い世界をご存じないからと推察いたします。
「公共性」に関しては、おっしゃることは理解できます。オーディオ再生を芸術行為というのが引っかかる理由のひとつでもあります。ただ、ひとりでもふたりでも感動を与えることがあるのですから、別に量的な効果はどうでも良いではありませんか。

投稿: machinist | 2005年9月13日 (火) 21時39分

任三郎様、machinist様、こんばんは。

「新レコード演奏家論」読みました。ステレオサウンドの読者ですので、すらすら読めました。
ところで、machinistさんの鋭い指摘、その通りなんです。ステレオサウンドは読んでるんですが、オーディオという行為が何をすることかわかっていません。「新レコード演奏家論」にも書いてありませんでした。

菅野さんの場合は、「イコライザーによる調整」がそうなのかなと、うっすら思いましたが。ケーブルについては否定的に書いてありましたね。菅野さんのお部屋の写真をみるとルームチューニング・グッズが入っているわけでもないし。インシュレーターに凝ってるわけでもないし。

装置を買ってきて結線して、スピーカーの置き場所を調整したあと、オーディオというのは何をするのでしょうか。具体的に教えていただけたらうれしいです。

投稿: | 2005年9月14日 (水) 01時51分

> オーディオというのは何をするのでしょうか。

おおっ、根元的な疑問。恐れ入ります(笑)

スピーカーの置き場所でいえば、左右前後の壁との距離の他に
床面との設置状況があります。インシュレーターを介して
建物の構造のどことつながっていくのか、などですね。
低域の表情は激変すると思います。
電源の取り方は最重要でしょう。
ケーブルは材質も大事ですが取り回し状況やコネクトのクオリティで大きく変化します。

機器のエージングのコントロールもあります。
0dBに張り付いたJ-POPばかり掛けていては、ダメでしょうね。
アコースティックなパルスがちゃんと入っているソースを機械に覚えさせる、とか。
最後は音量調節です。これで決まります。
コンディションが良くなれば、音量域も幅広くなりますよ。


投稿: machinist | 2005年9月14日 (水) 09時13分

machinist様、こんばんは。

ご説明ありがとうございました。
オーディオは何をするのかよくわかりました。こんな風にまとめて書いてあるのは初めてなので、すごーくすっきりしました。
こういう基礎的なこともステレオサウンドに書いてあったらいいのになと思いました。

ソースはだいたいクラシックで、最近はヴァイオリン・ソナタとかが多いです。
またよろしくお願いします。

投稿: | 2005年9月15日 (木) 02時25分

machinistさん、コメントありがとうございます。

行ってきましたよおおおおおおお!(我を忘れている)

別途ご報告申しあげます!

投稿: 任三郎 | 2005年9月15日 (木) 18時40分

任三郎さま、ついに行きましたか!!!
くれぐれもお大事に(なに?)

NEXTNEXTさん、大事なことを言い忘れてました。
聴く人間の意識の問題です。
音響のなかから何を聴き取るのか、です。
いま聴いているオーディオの音に足りないものは何か。
オーディオのチューニングはこのフィードバックの中からしか生まれません。
当然、個人差があります。
だから表現に成りうるのではないかと思っています。

投稿: machinist | 2005年9月15日 (木) 19時56分

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