FIRENZE 45

山口孝さんの写真集「FIRENZE 45」です。まさか手に入れられるとは思っておりませんでした。感激です。

Firenze45 

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聴く鏡

菅原正二さんの『聴く鏡』、単行本になったのですね。

もう発売されているようです。ステレオサウンドさんのHPでさっそく注文しました。

「季刊ステレオサウンド好評連載中の『聴く鏡』の12年間を全網羅」とのこと。
まとめて読めるのはとても楽しみです。

詳しくはこちらを。

 

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意味がなければスイングはない

ステレオサウンド誌で村上春樹さんの文章を読めると知ったときはうれしかった。2003年の春から2年と少し、10回の連載の間、ステレオサウンド誌を買うと、いつも村上さんの文章を最初に読んだものです。オーディオ誌への連載ですけれど、やはりというか、オーディオについての文章ではなくて、音楽に焦点をあてて書かれたものです。

その文章が、「意味がなければスイングはない」というタイトルの本になっています。雑誌には長すぎて載せられなかった部分も含めたフルバージョンとのこと。そのせいか、今回の方が言いたいことがよくわかる印象があります。

村上さんは、小説には大きく言って「物語を展開して、外側に開いていく傾向を持つ作品」と、「文体を展開して、内側に向かっていく傾向を持つ作品」があると言っています。これは「スプートニクの恋人」を説明するときに「後者だ」ということで使用された表現ですが、「意味がなければスイングはない」は、小説ではないですけど、後者の手法でアーティストを語ったものだと思いました。村上文体を展開してアーティストを分析した文章だと。

ここにはレコードで音楽を聴くということについて、とても共感できることが、素晴らしい文章で表現されています。僕はもともと村上さんの大ファンですから、まああまり信用しないでいただいた方がよろしいので、ちょっと長いですけど一部引用します。

どうでしょう?

うん、こういうことなんだよなと、僕は思うのですけれども。

 

『シューベルト「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850  ソフトな混沌の今日性』から

 

思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。そしてシューベルトのニ短調ソナタは、僕にとってそのような「大事な引き出し」であり、僕はその音楽を通して、長い歳月のあいだに、ユージン・イストミンやヴァルター・クリーンや、クリフォード・カーザオン、そしてアンスネスといったピアニストたち――こう言ってはなんだけど、決して超一流のピアニストというわけではない――がそれぞれに紡ぎだす優れた音楽世界に巡り会ってくることができた。当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない。僕の体験なのだ。
そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上におけるわれわれの人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。

 

『日曜日の朝のフランシス・プーランク』から


僕は思うのだが、昔ながらのLPでひとしきり聴きたいところまで聴いて、そこで針をあげてしばし余韻を味わって……というのが、プーランクのピアノ曲や歌曲のもっとも正しい聴き方なのではないだろうか? もちろんやろうと思えば、CDでだってそういう聴き方はできるわけだけれど、アナログ的な手仕事が、彼の音楽には情緒としてよく似合っているように僕は感じる。更に言えばSPの方が、雰囲気的によりぴったりくるかもしれない。しかしそこまで言い出すときりがなくなってくるので、とりあえずはLPあたりで我慢しておこう。気持ちの良い日曜日の朝に、大きな真空管アンプ――なんていうものをあなたがたまたまお持ちであればということだが――があたたまるのを待ち(そのあいだに湯を沸かしてコーヒーでも作り)、それからおもむろにターンテーブルにプーランクのピアノ曲や歌曲のLPを載せる。こういうのはやはり、人生にとってのひとつの至福と言うべきだろう。それはたしかに局所的な、偏向した至福かもしれない。ごく一部でしか通用しないものごとのあり方なのかもしれない。しかしそれは、たとえほんのささやかなものであれ、世界のどこかに必ずなくてはならない種類の至福であるはずだと、僕は考える

 

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幸せな休日

昨日は3連休の中日。

家から一歩も出ずに、そういえばゲージツ家の篠原克之さんはそういう日を「土踏まずの日」と言ったらしいが、土踏まずで音楽をきいて、本を読んで、コーヒーを飲んで、料理をして過ごした。

最高に幸せでした。(笑)

本は、普段なかなか読めないものを3冊。村上春樹「東京奇譚集」、林真理子「アッコちゃんの時代」、アントニオ猪木「あなたの体も危ない」。

この数年、仕事か音楽・オーディオ関係の本ばかり読んでいるので、小説は久しぶり。本当は小説が大好きなので、この2冊を読んでいる時間はもう至福のときでした。

村上さんは前作「アフターダーク」が大きなシリーズものの予告編という感じでしたが、今回はそれとは別系統の短編集。

林真理子さんは初めて読むかも知れない。「アッコちゃん」はバブル期に話題になった実在の人物。僕は1984年に会社に入ったので、一応社会人としてバブル期を過ごしていますが、全くバブリーでは無かったこともあり(笑)、アッコちゃんという人のことも全然知りませんでした。この本を読んで、バブルというのはそういう時代だったのか、と思ったくらい。この作品を読む限り、著者が男性と女性の役割を分けて考えている様子なのは興味深い。

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「あなたの体も危ない」はMzさんのお友達が共著とのことで読んでみましたが、すごく勉強になりました。

僕の会社の先輩が糖尿病で、夜中に一緒にお酒を飲みながらインシュリンを打ち、「打つと低血糖になっちゃうから」とチョコレートを食べているのを見て不思議に思っていました。もう10年以上前のことですけど。この本を読むと、そういうのはやっぱりヘンであることがよくわかります。先輩はその後治療法を変えられたのか、今は飲んでもチョコは食べません。先輩が今でも元気に仕事をされているのが、僕はとてもうれしい。

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夕食は「夏野菜のパスタ」。

もう空気はすっかり秋になってきたので、今年最後と思って作りました。野菜だけで旨みが十分に出るのが面白いところです。

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新レコード演奏家論

菅野沖彦先生の著作「新レコード演奏家論」について感想を述べよ、という指令を受けました。

 

とは言え、この本はレコード音楽に関する菅野先生の長年の、たぐいまれな経験を元に書かれているものですから、私なんかが軽々に感想を申しあげられるようなことではありません。

 

なので、「レコード演奏家」という考え方について、論議の構造を私なりに分かりやすく整理してみることにしました。

 

ただし、私の理解不足や表現力不足などによって、かえって分かりにくくなる場合があります。

どうかお許しを。(笑)

 

また、菅野先生が書かれていることを私が全く誤解していることもあるかも知れません。

というかきっとあるでしょう。お許しください。文責は全て私にあります。

 

 

********************************

「新レコード演奏家論」の「第12章 受け手と表現手の各ステージ」での分類に沿って、写真や絵画と対比しつつ、論点を整理してみます。(表1)

 

表1 【レコード音楽の各ステージ】

 

音楽、レコード音楽

写真

絵画

 

芸術性

芸術性

芸術性

第1ステージ

作曲

撮影

描く

第2ステージ

演奏

第3ステージ

録音

元の演奏の芸術性

(撮影)

(○)

(描く)

(○)

論点1

録音固有の芸術性

第4ステージ

再生

元の演奏の芸術性

論点2

録音固有の芸術性

論点3

再生固有の芸術性

第5ステージ

鑑賞

鑑賞

鑑賞

*芸術性:○は「一般に認知されている」の意。

 

第1ステージは自然現象を対象にして人間が表現行為を行うもので、「音楽(作曲)」「写真」「絵画」いずれも芸術性が一般に認められています。

 

写真の場合には「カメラ」という人工物が介在することもあり、初期には「単なる複製ではないか」という意見もありましたが、オリジナルとは別の固有の特質・独自性を持つことが認められ、芸術として認知されるようになっています。

 

 

第2ステージは「音楽」に固有のステージで、演奏がここに位置します。これも現在ではその芸術性が認められています。

しかし、最初からそうであった訳ではなく、表現手の自覚と行動によってその芸術性が認知されるようになったものです。

 

例えば、オーケストラの指揮について、野村あらえびす先生が著書「名曲決定盤」に次のように書いています。(以下カッコ内引用)

 

「オーケストラの指揮というものは、かなり古くから開拓されたものだが、しかし昔の指揮者は原作者の意図を生かすことを以て最上とし、従って楽譜通りに演奏すれば以て足れりとしたのであるけれども、時代と共に指揮法も次第に変化し、指揮者の意志が次第に多く加わって、指揮もまた創作的な意図を必須条件とする独立せる芸術になったのである。

………(略)

わけてもニキシュは、指揮は即ち一つの芸術であるという立派な建前で、しかもそれを実際に証拠立てたのであった。」

 

アルトゥール・ニキシュは1855年の生まれで、指揮者としての活動は1878年頃から1922年に没するまでですから、指揮というものの歴史からすれば、これはそれほど昔のことではないわけです。

 

 

第3ステージは、写真や絵画においては、人工物を対象にした場合があたると言えるかも知れません。

 

写真の場合には、第1ステージをクリアした段階で既にここでも芸術性を獲得していると言えるでしょう。

絵画の場合はもっと自然に理解されている反面、ポップアートの領域では論議を巻き起こしているのが面白いところです。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶などが有名ですが、現在ではこれも芸術として認められています。

 

「音楽、レコード音楽」における第3ステージは、録音という行為になります。

 

ここでひとつめの論点「録音制作に固有の芸術性は認められるか」が発生します。

「新レコード演奏家論」では「第14章 レコード制作家とは」でその仕事の内容が詳述されているとおり、その芸術性は写真と同様に認められるものと思います。

また、ここにスポットを当てて論議した場合、その芸術性の有無にあまり異論は出ないとも思えます。

 

むしろこの論点については、この仕事の実態について世間であまり知られていないということが課題なのかも知れません。曲、演奏を含め、できあがったレコード(CD)に芸術性が認められなければ、録音の芸術性は成立しません。世間にはたくさんのCDが出回っていますが、多くはまだ芸術と認知されない音楽であるため、それらについて録音制作の芸術性にまで認識がおよぶ余地がないということです。

 

 

第5ステージの単なる「鑑賞」が芸術ではないということは、全てに共通です。

 

 

戻って第4ステージは、再び「音楽、レコード音楽」に固有のステージです。ここが論議の中心です。

 

再生された音楽には、それがうまく再生されていれば、元の演奏の芸術性を認めることができます。

また、音の悪いラジオからきこえてきた音楽にとても感動した、というようなことを多くの人が体験していると思います。私もそうです。

これは再生環境がよくなくても、聴く側の心の状態によっては、元の演奏の芸術性は十分伝わる場合があるということだと思います。

 

自分の部屋に居ながらにして、元の演奏の芸術に触れることができるのは素晴らしいことです。

これだけでも十二分にありがたいことで、こんな凄いことが可能な時代に生まれたことに私は感謝しており、もうここで話を終わりたいくらいです。(笑)

 

現在では一般的にも、レコード音楽に元の演奏の芸術性は認められていると言ってよいかと思いますが、これも最初からそうだったわけではありません。レコード音楽を生演奏の代用品と捉える時代は、比較的長く続きました。

 

この原因の一つに、菅野先生は生の音もレコードの再生も、同じ本物の空気を媒介とするものであることを挙げられています。これが認識の混乱を招いたと。

 

そのとおりだと思います。混乱するのです。

私は高校のときにクラシック・ギターを演奏するクラブに入っていましたが、ある時クラブのメンバーが、会議録音用の小さなカセットデッキでナルシソ・イエペスの演奏を皆の参考に聴かせ、こう言ったのを覚えています。

 

「演奏はいいけど、イエペスってひどい音だよね。○○くん(私)の方が全然いい音だ」

 

冗談だと思って、言った本人の顔を見ましたが、彼は真顔でした。

イエペスに、申し訳がない。

 

高校生の言うことですからまあ仕方ないと言えば仕方ないのですが、これでは演奏家が録音再生を毛嫌いするようなことがあってもやむを得ないと思われます。

 

さて、しかしながらこの、生の音もレコードの再生も同じ本物の空気を媒介とすることが、この後の論議に重要な役割を果たします。

 

再生された音楽に、元の演奏の芸術性を認めることができても、それだけであれば、その芸術性は元の演奏のものであって、コピーである再生音楽のものではありません。

 

そこで論点2が出てきます。

録音固有の芸術性があり、それが再生によって表現されるのであれば、レコード音楽は生演奏から独立した価値を持った芸術であることになります。

 

そして論点3。録音固有の芸術性にとどまらず、再生に固有の芸術性があることをもって、「レコード演奏家」が成立します。

 

 

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レコード演奏家に関する論議の構造、論点の位置は、だいたい以上のようなものと思います。

「新レコード演奏家論」では様々な形で論拠が提出され、証拠が積み上げられていきます。

またこの著作は、レコード音楽全般を扱ったものであり、上記以外にも様々な見識が述べられています。ぜひ読んでみてください。

(書いているうちに「お勧め本の紹介」のような気分になってきました)

 

 

さて、音楽というものは、人類の誕生以来継続的に、直線的に成長を続けてきたのでしょうか。

そんなことはありません。

 

あるジャンルが永遠に進化し続けるということは、ないと思います。成長が止まったジャンルが元通りもてはやされることもありません。全盛期の作品が後世に残ることはあっても。

 

音楽も未来永劫成長し続けるというわけにはいきません。

例えば「詩」がそうであったように、成長がスローダウンしたり、成長が無くなることは十分にあり得る話です。

 

かつては「作曲」が音楽の「芸術」と言える分野でした。しかし「作曲」が成長し続けるにも限界があり、それと入れ替わるように「演奏」が芸術として認められ、主役になった。

 

やがて「演奏」の成長が限界を迎え、その「再生」が主役になることがあるかも知れません。

 

逆に、演奏が限界を迎え、再生がそこを埋めることができなければ、音楽自体が衰退することになるかも知れません。

 

もちろん、音楽の成長を止めないことがベストです。そうあって欲しい。

しかし現代の作曲が後世に残る芸術だろうか、少なくとも演奏込みでの話ではないかと考えると、再生の責任もまた重いと思うのです。

 

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